神郷町史から紐解く千年の歴史

神代(こうじろ)和紙ヒストリー

 
 

神郷下神代(しんごう しもこうじろ)
 
伊勢神宮の神領から京都東寺の荘園へ


  神郷下神代は、岡山県の北西部、新見市のほぼ中央に位置する、中国山地にわずかに開けた小さな町です。紙漉きの歴史を紐解くと、伊勢神宮(内宮)の神領だった平安時代まで遡ります。神領家への物資の輸送や市場への輸送、人の出入り等便利なことから、わたしたちが活動している「紙の館」の正面に位置する「門前」に政所がありました。当然、神代和紙も献上品として、遠く伊勢の国へ運ばれていたと思われます。
 余談ですが、神代は神に奉る米を作る田んぼ、「神稲代(かむしろ)」が転じて「神代(こうじろ)」となったようです。
 室町時代、新見市の一部地域は東寺の荘園「新見庄」で、伊勢神宮領の神代と隣接していました。しかしいつの頃か定かではないのですが、東寺領「新見庄」となりました。神領から東寺領へ。天皇または上皇の院宣によるものだったそうです。

 
 

神代の製紙


  新見は、「新来帰化人の開いた土地」という意味をもっていると岡山県通史に書かれてます。このことから、神代に早くから帰化人によって製紙の技術が伝わったのではないかと考えられています。製紙は、楮、麻、三椏、雁皮といった植物の靭皮が原料です。これら植物が豊富に自生し、なおかつ水質が良いという製紙の条件が揃っていたことで、紙作りが栄えたのかもしれません。
 「新見庄」の資料に、「公事紙を送れ」という東寺からの催促が頻繁にあったことが記されています。これに答えて「今少し待ってもらいたい」と、詫びの手紙が実に多かったことから、神代紙の品質がいかに高かったかがうかがえます。当時の人々が昼夜問わず紙を漉いて、東寺へ送っていたのかもしれません。
 
 その後明治期に洋紙が輸入され、国内でも製造されるようになりました。また、新聞や書籍などの大量印刷が本格化すると、洋紙と比較して生産効率が悪い和紙は次第に洋紙に押されるようになっていきました。和紙から洋紙への流れは山間部とて例外ではありません。和紙産業は後継者不足も相まって、次第に衰退していきました。
 
神代地区は今でもあちらこちらに三椏の花が咲き、製紙が盛んに行われていた当時の名残を垣間見ることができます。

 
 
 
 

 

神代和紙復活へ


 平成2(1990)年、当時の阿哲郡神郷町(現新見市神郷)は、昭和の中頃まで地域内で精米や製粉に活躍していた水車と、奈良平安の頃より漉かれていた神代和紙の歴史と文化遺産を後世に伝え、地域活性につなげるため、「日本一の親子孫水車」と「紙の館」を整備しました。そして、それらがある一帯を「夢すき公園」とし、人々の交流の場としたのです。
 ただ、建物は出来ても紙を漉くのは人間です。紙漉きができる人材が居ないことには「紙の館」はただの歴史館で終わってしまいます。
 幸いにも当時、新見市高尾で赤木浦治氏が高尾和紙を漉いていました。古くは神代から高尾へ技術の伝承がなされたものでしたが、残ったのは赤木氏のたった一軒のみでした。赤木氏は「紙の館」に何度も通い、保存会のメンバーである忠田町子氏をはじめ、当時のスタッフに紙漉き方法を指導してくれました。
 近年は、技法を受け継いだ忠田町子氏がただ一人神代和紙を作り続けていましたが、そのひたむきな姿と和紙の美しさに惹かれ、少しづつ人が集まってきました。そして、平成28(2017)年、地元有志により「神代和紙保存会」が設立され、技術の伝承と手漉き和紙の周知に努めています。